マイトレーヤ・ラエルは、他の惑星に住む創造主エロヒムによって遣わされた最後のメッセンジャーであり、人類に宛てた最後のメッセージをすべての人に伝えるよう彼らから求められました

レーシングカー雑誌の出版で成功を収めていた当時27歳の彼は、1973年12月13日の朝、フランスの中心部にある火山公園の“ピュイ・ド・ラソラ”で、驚くことに他の惑星から来た一人の人間と遭遇します。 この他の惑星から訪れてきた異星人は、私たちの起源についての詳細にわたる新たな説明と、私たちの未来をどのように組織化すべきかという情報を彼に与えたのでした。それらを書籍にしてまとめたものが 『地球人は科学的に創造された』になります。 ラエル氏は、同じ場所で6日間にわたってその異星人と面会した後、自らに与えられた使命を受け入れました。それは、この革命的なメッセージを人類に伝え、人類が神秘主義に陥ったり恐れを抱くことなく、意識的で感謝に満ちた人間として、創造主であるエロヒムをお迎えする準備を整えるというものでした。 ラエル氏は、この壮大な任務について数ヶ月間にわたり熟考した後、胃潰瘍になりかけましたが、最終的に長年愛したスポーツカー・ジャーナリストとしてのキャリアを断念し、(彼が出会った異星人である)ヤーウェから与えられた任務に専念することを決意したのです。 この出会いから1年も経たないうちに、彼はこの出来事について記した本を出版し、フランスの主要なテレビ番組とラジオ番組の2つに出演し、公開会見を行うことを発表しましたが、 1974年9月19日にパリで開催されたこの最初の公開会見には、2000人以上もの人々が集まりました。 彼はその直後、マデク(MADECH)という、彼に託された大役を手伝おうとする人々を集めた協会を設立しますが、これが後にラエリアン・ムーブメントとなったのです。 1974年末までには、この協会の会員数は170名を数えるまでになりましたが、 現在では、120カ国以上で10万人以上のメンバーを擁するまでになっています。

1975年10月7日、彼は2回目の遭遇を果たし、当時の2冊目にあたる本に記されることになる追加の情報を彼らから与えられましたが、これについても現在は書籍『地球人は科学的に創造された』に記されています。 以来、ラエル氏は、世界中を巡り、あらゆる大陸で講演会やセミナーを開催し、私たちの創造主たちを歓迎したいという思いを共有する人々を集めてきました。

彼には他にも数冊の著書があります。 『ハーモニー メディテーション』は、 彼の教えの中心をなすものであり、『天才政治』では、地球をより知性的に管理することを提唱しています。また、『クローン人間にYES!』は、不老不死になる可能性や、科学のおかげで望める美しい未来について説明しています。

ラエル氏は、長年に渡りさまざまな公的運動を起こすきっかけをもたらしてきました。コンドームの使用に関する学校でのプロモーション、マスターベーションの促進、「違いを容認するだけでは十分でなく、その違いを愛すべきである」というスローガンのもと、マイノリティを支援する世界的なキャンペーン、人権を無視したすべての宗教書の検閲を求める物議を醸す要求、クローンエイド社の設立を通じたヒトクローニングの支援、地球上のすべての人間に食物をもたらす唯一の可能性を秘めた遺伝子組み換えの推進、割礼を受けた女性が再び快楽を味わえるようにクリトリスの修復を行う支援団体『クリトレイド』の設立、アフリカ合衆国を創設することを目的とした、アフリカの伝統的酋長たちへの参集の呼びかけ、などです。

ラエル氏は、CNN、FOX、BBC、60 minutesなどのニュース番組や、BBCやCBSといったトーク番組など、世界中の主要なテレビ番組のほとんどにゲストとして出演しています。 また、科学的な展望を説明するためアメリカ議会に招待されたり、2000年にはコンゴのドニ・サスヌゲソ大統領から国賓として招待されるなど、世界の多くの指導者の賓客にもなっています。 さらには、フランスの作家ミシェル・ウエルベック氏や、『PLAY BOY』誌の発刊者であるヒュー・ヘフナー氏など、数多くのアーティストたちも彼を認めています。

仏教徒にとっての弥勒菩薩、ユダヤ人にとっての救世主、キリスト教徒にとっての精霊、あるいは世界中の多くの集団がつけた名前が何であれ、地球上のあらゆる文化において、ある一人のメッセンジャーの到来が期待されています。 この待ち望まれたメッセンジャーは、これまでの全てのメッセンジャーたちと同様、すべての人々の期待に添うものではないかもしれませんが、彼は創造者たちが私たちに望んでいることを述べ伝えています。 こうしたことは、ラエル氏が40年以上前から行っていることであり、2035年までに建設するよう要請された大使館に創造者たちをお迎えするため、何も所有しないことを誓いながらくまなく旅を続け、そのすべてを捧げているのです。

最初の遭遇

1973年12月13日の朝、レーシングカー雑誌のビジネスを成功させていた当時27歳のラエル氏は、他の惑星からやって来た一人の人間と途方もない出会いをします。 その訪問者は自身をヤーウェと名乗りました。

同じ場所で6日間にわたって会見を行った後、ラエル氏は自身に与えられた使命を受け入れました。それは、この革命的なメッセージを人類に伝え、創造者たちをお迎えするための準備を整えることだったのです。

2回目の遭遇

ラエル氏は宇宙旅行に招かれ、エロヒムの惑星を訪問し、そこですべての偉大な預言者たちに会いました。

50年以上の献身の中で、

自分自身を高め、全人類を愛することがいかに大切であるかをラエル氏は教えて下さっています。

つねに私たちを導いて下さり、人類を救うための特別な人道的活動を数々と起ち上げてこられました。

ラエル氏の経歴

rael_singer

シンガーソングライター

ラエル氏は、1946年9月30日にフランスのヴィシー地方でクロード・ヴォリロンとして誕生し、叔母や祖母によってアンベールで育てられました。 詩、歌、作曲に熱中したラエル氏は、15歳で家を出てパリに渡り、クロード・セラーという芸名で歌手として活動します。

ジャック・ブレルの大ファンであった彼は、キャリアの初期、このベルギーのスターが出演していた、パリにあるすべてのキャバレーで歌いましたが、その際はとくに『L Echelle de Jacob』をよく歌っていました。

Autopop car racing magazine Maitreya Rael journalist

スポーツカー・ジャーナリスト

彼は自身でカーレース雑誌を創刊しましたが、フランスのレーシングカー雑誌の人気ナンバー1となり、自身に貸し出されたレーシングカーをレースで走らせることができるようになりました。

Maitreya Rael The Last Prophet racing cars

レーシングドライバー

アラン・プロストなどのチャンピオンを輩出したフランスのマニクールにある有名なウィンフィールド・レーシングスクールを卒業しています。 誰もが驚くことに、彼はフランスのアルビ・サーキットでの初レースで、経験豊富な有名ドライバーたちを相手にポールポジションを獲得しています。

彼はすぐにファーストラップ・ドライバーとして知られるようになり、1周目で7台もの他車を追い抜くこともありました!

ハピネス・アカデミー

with

最後の預言者ラエル

自分自身を愛すること、人生の意味、幸福を発見する

最後の預言者から学んでみませんか? ラエル氏はまだ私たちと共にいます!

最後の預言者であるラエル氏と一緒にこの人生体験をするチャンスです

1975年10月7日、ヤーウェは再びラエル氏のもとを訪れました。 今度は、(古代の聖典で楽園と呼ばれている)不死の惑星に案内され、そこで彼は人類の過去の預言者たちと会い、人類が生きていく上での指針となる一連の「鍵」を与えられました。 ラエル氏の地球における存在理由とエロヒムについて、さらに多くのことが明かされました。

彼の2冊目の本に収録されている追加情報で、現在は書籍 『地球人は科学的に創造された』 に記されています。

ラエル氏は、1946年9月30日にフランスのヴィシー地方でクロード・ヴォリロンとして誕生し、叔母や祖母によってアンベールで育てられました。 詩、歌、作曲に熱中したラエル氏は、15歳で家を出てパリに渡り、クロード・セラーという芸名で歌手として活動します。 ジャック・ブレルの大ファンであった彼は、キャリアの初期にこのベルギーのスターが出演していたパリにあるすべてのキャバレーで歌いましたが、その際はとくに「L Echelle de Jacob」をよく歌っていました。 「Le Miel et la cannelle」(ハチミツとシナモン)という曲で人気を博した彼は、フランスのスター、ダリダの元夫であるルシアン・モリッセからフランスのレコード会社であるDisc AZ社のCEOとの契約オファーを受け、1966年から1971年にかけて5枚のレコードをリリースしました。

– Sacrée sale gueule(1965年の最初のレコード)
– Dans un verre de vin(ワイングラスで), Le Miel et la cannelle(ハチミツとシナモン)(1966年)
– Madam’ Pipi(トイレ待ちのご夫人)(1966年)
– Monsieur votre femme me trompe(旦那さん、奥さんが浮気してるよ)(1966年)
– Quand on se mariera(結婚する時は)(1966年)
– Mon amour Patricia(私の愛するパトリシア) (1971) (1971)

彼が創造者エロヒムのメッセンジャー「ラエル」となってからは、私たちの大いなる歓びでもあるその歌と曲作りの才能を生かして、自由な愛、非暴力、違いを愛することなど、ラエリアン哲学の価値観や指針を高めることにその才能を生かしています。

ラエル氏は200曲以上の歌を書いていますが、 こちらから彼の歌声の一部を動画で視聴することができます。 mp3形式でダウンロードできるものもあります。

ラエル氏が他にも宿していた才能と情熱の一つとして、9歳の時から向けられていたカーレースがありました。 発売されたばかりのあらゆる車に触れるため、スポーツカー・ジャーナリストになったのです。 自身でカーレース雑誌の『オートポップ』を創刊し、フランスのレーシングカー雑誌として人気ナンバーワンとなり、自身に貸し出された車でレースに出場することができるようになりました。 アラン・プロストなどのチャンピオンを輩出した、フランスのマニクールで有名なウィンフィールドのレース・スクールを卒業しています。 誰もが驚くべきことに、彼はフランスのアルビ・サーキットでの初レースで、経験豊富な有名ドライバーたちを相手にポールポジションを獲得しました。 1周目で7台もの車を追い抜くこともあり、その才能はすぐに業界の中で知れ渡るようになりました!

1973年12月13日、私たちを創造した科学者の一人と出会い、その情熱を諦めざるを得なくなったことで、彼の人生は劇的に変化しました。 しかし、有名な遭遇から約20年後の1994年、彼のレースを見たいという多くのラエリアンたちの要望により、ラエル氏は再びプロ・スポーツカーのハンドルを握り、国際的に有名な大会に参加することを受け入れました。 世界初となるUFO現象の解明センターである“UFOランド”の支援を一部受け、ラエル氏は自身の情熱を追いながらも、私たちの創造者たちからもたらされたメッセージを今も広めています。

ル・マンの勝者であるジャン・クロード・アンドリュエ氏、デパイラー氏など、様々なパートナー・ドライバーたちと共に、イタリアのモンツァ、ベルギーのスパ、アメリカのデイトナ、カナダのモントリオール、日本の鈴鹿など、世界中の名門コースでレースを行うことで、ラエル氏のエリート・ドライバーとしての評価は確立されています。明らかに彼は、世界最速の精神的指導者です!

現在、ラエル氏はプロレースから引退していますが、今でもオンラインでレース・シミュレーションゲームを楽しんでいます。

2001年: ランボルギーニ杯

ベルギーのスパ・フランコルシャンで、ランボルギーニ・ディアブロ・スーパートロフィーに乗車し7位。
パートナー・ドライバーであり、ラエル氏の親友でもあるフランスの伝説的レーサー、Jean Claude ANDRUET氏(5度のル・マン優勝。多数のヨーロッパ・ラリー チャンピオン)
イタリア、モンツァで、ランボルギーニ・ディアブロ・スーパートロフィーに乗車(パートナー・ドライバーJean Claude Andruet氏) 16位完走

2000年: ワールド・チャレンジ(アメリカ) および FIA GT選手権

デイトナ24時間耐久レースで、ポルシェGT 3 R DNF(クラッチ)
FIA GT選手権:Watkins Glen氏、アメリカ、ダッジ・バイパー – 7位
FIA GT選手権:モンツァ、イタリア – ポルシェGT 3R – 11位、パートナー・ドライバー François Migault氏

1999:

アメリカ、フロリダ州モロソ、24時間レース-GTSクラス優勝、総合3位、車 MOSLER INTRUDER(ファクトリーカー) パートナー・ドライバー:Jean Claude Andruet氏
MOSPORT、(カナダ) – シボレー・トランザム・カマロ – 22位

1998:

ラスベガス・モーター・スピードウェイで、トヨタ・スープラ・ビトゥルボに乗車、 20位(ターボに問題発生)
ホームステッド=マイアミ・スピードウェイ、 モトローラカップ – サンダーバード 20位
モントリオール – モトローラカップ – カマロ
第1レース:13位
第2レース:14位
ミサノ(イタリア) – スポーツプロトタイプ – センテナリ・アルファロメオは6位(ターボに問題発生)
トロワ・リビエール(カナダ) モトローラカップ – カマロ
第1レース:11位
第2レース:8位
モスポート (カナダ) – モトローラカップ – カマロ 7位
ライムロック – アメリカ – モトローラカップ – カマロ 17位

1997:

ライムロック – アメリカ – GTレース、モスラー・ラプター、3位と表彰台
1997
ワールドチャレンジ、ライムロックアメリカ、ロータス・エスプリ・ターボ – 11位

1996:

モントリオール、カナダ – シボレー・コルベット – 8位
トロント -カナダ シボレーコルベット – 47車中 7位
トロワ・リビエール – カナダ、シボレー・コルベット
第1レース:DNS(燃料ポンプ)
第2レース:予選で車が火災を起こし、26車中最後尾からスタートして終了
シャノンビル – カナダ シボレー コルベット
第1レース:DNS(エンジントラブル)
第2レース:10位
モントランブラン – カナダ、シボレーコルベット
第1レース:DNS(サスペンション破損)
第2レース:16位(エンジントラブル)

1995:

ケベックシティ カナダ(アイスレース) トヨタ・テルセル – 14位
富士スピードウェイ(日本) – 日産マーチカップ – 4位
トロント – マグナ・エンデューロシリーズ、マツダRX 7ターボ – 10位

1994:

SUGOサーキット(日本) – トヨタ スターレット・トロフィー(モノタイプ) – 18位
SUGO サーキット(日本) トヨタ・セリカ・スプリンターカップ – 14位
筑波サーキット – ホンダ シビックカップ – 雨の中で7位
鈴鹿サーキット – トヨタセリカカップ – ラップレコードから7/10で6位のベストラップ
レースを辞めてから20年後の1994年、48歳になったラエル氏は、彼のレースを見たいというラエリアン・メンバーの後押しで日本でのレース復帰を果たしました。メンバーたちを中心にRAEL RACING TEAMを結成し、ムーブメントの資金は使わずにラエル氏のレース活動を支援しました。

1974年10月、エロヒムと二度目の遭遇をした後、ラエル氏は彼らの勧めに従い、レースを辞めてメッセージ普及に人生を捧げることにしました。 当時、彼は最終目標であるF1まであと一歩のところであり、F3レースのシーズンをスタートさせようと計画していたところでした。 しかし彼は決断を下し、すべてのレース・イベントをキャンセルして、その後はエロヒムの使命に専念することにしたのです。

1974:

フランスのアウディカップ(サーキットの最初のシーズン)ファイナル・チャンピオンシップ分類 – 4位とルーキーオブザイヤー。
様々なフランスのサーキットで行われた10レースすべてをアウディ80同当車で参戦
ALBI、スターティンググリッドでは過去最高3位だったが、最初のレースでポールポジションを獲得
ポール・リカール・サーキット(フランス)4位
マグニー・クールズ 7位
マグニー・クールズ(フランス) 7位
モンテリ(フランス) 6位
ポール・リカール・サーキット(フランス)4位
ラ・チャトレ(フランス)2位とラップレコード獲得

1973:

フォルクスワーゲン1302S – モンテカルロ・ラリー(モナコ) – リタイヤ(電気系統トラブル)
SAAB 96 – ゲルゴヴィーのヒルクライムレース(フランス) – 自身のクラスで3位

1972:

シムカ1100スペシャル – モービルラン – ポール・リカール・サーキット(フランス) – 1300ccクラスで3位
アルファロメオ2000 GTV – ラリー・ド・ロエスト(フランス) – ツーリスト・クラスで勝利
SAAB 96 – ラリーインファナルすべての地形(フランス) – 全体で9位 – ストック・ツーリングカーで1位
フォルクスワーゲン1302S – サン・ネクテール・スラローム・レース(フランス) – 総合優勝

1971年から1974年まで:

BMW 2002 Tl – ゲルゴヴィーのヒルクリンプレース (フランス) – 2000ccクラスで優勝
フォルクスワーゲン1302S – シャモニー・アイス・レーシングラウンド(フランス) – 1300ccクラスで5位
バブ・バギー – ラリー・インファナル全地形(フランス) – 1300ccクラスで5位
オートポップ・マガジン誌向けのプロテストドライバー

1968:

ホンダ360 – マーマンデのスラローム(フランス) – 750ccクラスで優勝
ウィンフィールドF3レーシング・スクール – マグニー・クール・トラック(フランス)で「Volant shell」のセミファイナリスト

1975年10月7日、ヤーウェは再びラエル氏のもとを訪れました。 今度は、(古代の聖典で楽園と呼ばれている)不死の惑星に案内され、そこで彼は人類の過去の預言者たちと会い、人類が生きていく上での指針となる一連の「鍵」を与えられました。 ラエル氏の地球における存在理由とエロヒムについて、さらに多くのことが明かされました。

彼の2冊目の本に収録されている追加情報で、現在は書籍 『地球人は科学的に創造された』 に記されています。

ラエル氏は、1946年9月30日にフランスのヴィシー地方でクロード・ヴォリロンとして誕生し、叔母や祖母によってアンベールで育てられました。 詩、歌、作曲に熱中したラエル氏は、15歳で家を出てパリに渡り、クロード・セラーという芸名で歌手として活動します。 ジャック・ブレルの大ファンであった彼は、キャリアの初期にこのベルギーのスターが出演していたパリにあるすべてのキャバレーで歌いましたが、その際はとくに「L Echelle de Jacob」をよく歌っていました。 「Le Miel et la cannelle」(ハチミツとシナモン)という曲で人気を博した彼は、フランスのスター、ダリダの元夫であるルシアン・モリッセからフランスのレコード会社であるDisc AZ社のCEOとの契約オファーを受け、1966年から1971年にかけて5枚のレコードをリリースしました。

– Sacrée sale gueule(1965年の最初のレコード)
– Dans un verre de vin(ワイングラスで), Le Miel et la cannelle(ハチミツとシナモン)(1966年)
– Madam’ Pipi(トイレ待ちのご夫人)(1966年)
– Monsieur votre femme me trompe(旦那さん、奥さんが浮気してるよ)(1966年)
– Quand on se mariera(結婚する時は)(1966年)
– Mon amour Patricia(私の愛するパトリシア) (1971) (1971)

彼が創造者エロヒムのメッセンジャー「ラエル」となってからは、私たちの大いなる歓びでもあるその歌と曲作りの才能を生かして、自由な愛、非暴力、違いを愛することなど、ラエリアン哲学の価値観や指針を高めることにその才能を生かしています。

ラエル氏は200曲以上の歌を書いていますが、 こちらから彼の歌声の一部を動画で視聴することができます。 mp3形式でダウンロードできるものもあります。

ラエル氏が他にも宿していた才能と情熱の一つとして、9歳の時から向けられていたカーレースがありました。 発売されたばかりのあらゆる車に触れるため、スポーツカー・ジャーナリストになったのです。 自身でカーレース雑誌の『オートポップ』を創刊し、フランスのレーシングカー雑誌として人気ナンバーワンとなり、自身に貸し出された車でレースに出場することができるようになりました。 アラン・プロストなどのチャンピオンを輩出した、フランスのマニクールで有名なウィンフィールドのレース・スクールを卒業しています。 誰もが驚くべきことに、彼はフランスのアルビ・サーキットでの初レースで、経験豊富な有名ドライバーたちを相手にポールポジションを獲得しました。 1周目で7台もの車を追い抜くこともあり、その才能はすぐに業界の中で知れ渡るようになりました!

1973年12月13日、私たちを創造した科学者の一人と出会い、その情熱を諦めざるを得なくなったことで、彼の人生は劇的に変化しました。 しかし、有名な遭遇から約20年後の1994年、彼のレースを見たいという多くのラエリアンたちの要望により、ラエル氏は再びプロ・スポーツカーのハンドルを握り、国際的に有名な大会に参加することを受け入れました。 世界初となるUFO現象の解明センターである“UFOランド”の支援を一部受け、ラエル氏は自身の情熱を追いながらも、私たちの創造者たちからもたらされたメッセージを今も広めています。

ル・マンの勝者であるジャン・クロード・アンドリュエ氏、デパイラー氏など、様々なパートナー・ドライバーたちと共に、イタリアのモンツァ、ベルギーのスパ、アメリカのデイトナ、カナダのモントリオール、日本の鈴鹿など、世界中の名門コースでレースを行うことで、ラエル氏のエリート・ドライバーとしての評価は確立されています。明らかに彼は、世界最速の精神的指導者です!

現在、ラエル氏はプロレースから引退していますが、今でもオンラインでレース・シミュレーションゲームを楽しんでいます。

2001年: ランボルギーニ杯

ベルギーのスパ・フランコルシャンで、ランボルギーニ・ディアブロ・スーパートロフィーに乗車し7位。
パートナー・ドライバーであり、ラエル氏の親友でもあるフランスの伝説的レーサー、Jean Claude ANDRUET氏(5度のル・マン優勝。多数のヨーロッパ・ラリー チャンピオン)
イタリア、モンツァで、ランボルギーニ・ディアブロ・スーパートロフィーに乗車(パートナー・ドライバーJean Claude Andruet氏) 16位完走

2000年: ワールド・チャレンジ(アメリカ) および FIA GT選手権

デイトナ24時間耐久レースで、ポルシェGT 3 R DNF(クラッチ)
FIA GT選手権:Watkins Glen氏、アメリカ、ダッジ・バイパー – 7位
FIA GT選手権:モンツァ、イタリア – ポルシェGT 3R – 11位、パートナー・ドライバー François Migault氏

1999:

アメリカ、フロリダ州モロソ、24時間レース-GTSクラス優勝、総合3位、車 MOSLER INTRUDER(ファクトリーカー) パートナー・ドライバー:Jean Claude Andruet氏
MOSPORT、(カナダ) – シボレー・トランザム・カマロ – 22位

1998:

ラスベガス・モーター・スピードウェイで、トヨタ・スープラ・ビトゥルボに乗車、 20位(ターボに問題発生)
ホームステッド=マイアミ・スピードウェイ、 モトローラカップ – サンダーバード 20位
モントリオール – モトローラカップ – カマロ
第1レース:13位
第2レース:14位
ミサノ(イタリア) – スポーツプロトタイプ – センテナリ・アルファロメオは6位(ターボに問題発生)
トロワ・リビエール(カナダ) モトローラカップ – カマロ
第1レース:11位
第2レース:8位
モスポート (カナダ) – モトローラカップ – カマロ 7位
ライムロック – アメリカ – モトローラカップ – カマロ 17位

1997:

ライムロック – アメリカ – GTレース、モスラー・ラプター、3位と表彰台
1997
ワールドチャレンジ、ライムロックアメリカ、ロータス・エスプリ・ターボ – 11位

1996:

モントリオール、カナダ – シボレー・コルベット – 8位
トロント -カナダ シボレーコルベット – 47車中 7位
トロワ・リビエール – カナダ、シボレー・コルベット
第1レース:DNS(燃料ポンプ)
第2レース:予選で車が火災を起こし、26車中最後尾からスタートして終了
シャノンビル – カナダ シボレー コルベット
第1レース:DNS(エンジントラブル)
第2レース:10位
モントランブラン – カナダ、シボレーコルベット
第1レース:DNS(サスペンション破損)
第2レース:16位(エンジントラブル)

1995:

ケベックシティ カナダ(アイスレース) トヨタ・テルセル – 14位
富士スピードウェイ(日本) – 日産マーチカップ – 4位
トロント – マグナ・エンデューロシリーズ、マツダRX 7ターボ – 10位

1994:

SUGOサーキット(日本) – トヨタ スターレット・トロフィー(モノタイプ) – 18位
SUGO サーキット(日本) トヨタ・セリカ・スプリンターカップ – 14位
筑波サーキット – ホンダ シビックカップ – 雨の中で7位
鈴鹿サーキット – トヨタセリカカップ – ラップレコードから7/10で6位のベストラップ
レースを辞めてから20年後の1994年、48歳になったラエル氏は、彼のレースを見たいというラエリアン・メンバーの後押しで日本でのレース復帰を果たしました。メンバーたちを中心にRAEL RACING TEAMを結成し、ムーブメントの資金は使わずにラエル氏のレース活動を支援しました。

1974年10月、エロヒムと二度目の遭遇をした後、ラエル氏は彼らの勧めに従い、レースを辞めてメッセージ普及に人生を捧げることにしました。 当時、彼は最終目標であるF1まであと一歩のところであり、F3レースのシーズンをスタートさせようと計画していたところでした。 しかし彼は決断を下し、すべてのレース・イベントをキャンセルして、その後はエロヒムの使命に専念することにしたのです。

1974:

フランスのアウディカップ(サーキットの最初のシーズン)ファイナル・チャンピオンシップ分類 – 4位とルーキーオブザイヤー。
様々なフランスのサーキットで行われた10レースすべてをアウディ80同当車で参戦
ALBI、スターティンググリッドでは過去最高3位だったが、最初のレースでポールポジションを獲得
ポール・リカール・サーキット(フランス)4位
マグニー・クールズ 7位
マグニー・クールズ(フランス) 7位
モンテリ(フランス) 6位
ポール・リカール・サーキット(フランス)4位
ラ・チャトレ(フランス)2位とラップレコード獲得

1973:

フォルクスワーゲン1302S – モンテカルロ・ラリー(モナコ) – リタイヤ(電気系統トラブル)
SAAB 96 – ゲルゴヴィーのヒルクライムレース(フランス) – 自身のクラスで3位

1972:

シムカ1100スペシャル – モービルラン – ポール・リカール・サーキット(フランス) – 1300ccクラスで3位
アルファロメオ2000 GTV – ラリー・ド・ロエスト(フランス) – ツーリスト・クラスで勝利
SAAB 96 – ラリーインファナルすべての地形(フランス) – 全体で9位 – ストック・ツーリングカーで1位
フォルクスワーゲン1302S – サン・ネクテール・スラローム・レース(フランス) – 総合優勝

1971年から1974年まで:

BMW 2002 Tl – ゲルゴヴィーのヒルクリンプレース (フランス) – 2000ccクラスで優勝
フォルクスワーゲン1302S – シャモニー・アイス・レーシングラウンド(フランス) – 1300ccクラスで5位
バブ・バギー – ラリー・インファナル全地形(フランス) – 1300ccクラスで5位
オートポップ・マガジン誌向けのプロテストドライバー

1968:

ホンダ360 – マーマンデのスラローム(フランス) – 750ccクラスで優勝
ウィンフィールドF3レーシング・スクール – マグニー・クール・トラック(フランス)で「Volant shell」のセミファイナリスト